ソ連に対するアメリカ人の感じ方って興味深い…なんて思いつつ、それよりも誰がどう動いて今回の話が成立したのかな?と気になっていた。
どうやらボリショイ側からオファーがあって、ホールバーグも悩んだ末、
プリンシパルとして所属しているABTの監督や両親と相談した結果の決断みたい。
下記の記事には、サウスダコタ時代の恩師による当時のホールバーグについての描写が面白い。
かなりの長さなので、二回に分けてご紹介します。
★ホールバーグの軌跡★
http://www.huffingtonpost.com/mobileweb/2011/11/03/david-hallberg-bolshoi_n_1073380.html
ホールバーグを20年以上前に教えた恩師、Kee-Juan Hanはその電話が鳴った時、ラスベガスのカフェに座っていた。
電話の向こうの声には、興奮と同じだけの不安が混じっていた。「先生、報告したいことがあるんです」。
ボリショイからのオファーを受け、決断しかねて電話をしてきたのだ。
「あの頃のホールバーグは、痩せこけて、ブロンドの前髪を長く、後ろ髪を短くしていた」。
…どんなやねん!その髪型!
ハン先生は電話で彼にこう言った。
「デイヴィッド、君はまだとても若い。そんな時に間違った決断などないのだよ。やってみなさい。考えてごらん、クラシックをその発祥の地で学ぶことができるんだよ!」
そしてホールバーグはボリショイとABT双方でプリンシパルとなる決断をした。
ここからは彼の母、Colleen Hallbergの語り。
両親からすれば、ダンスへの興味も知識もない息子がなぜこのような道に進んだのか未だ信じられない。
おそらく最初は古い映画のダンスシーンから始まったのかもしれない。
どのようにしてそこに興味を持ったのかは分からないが、ニッケルを靴底にテープで留めて、道を歩きながらタップするようになった。
まるでアメリカ版ビリー・エリオットである。
デイヴィッドが9才で本物のタップシューズを手に入れた頃、家族はサウスダコタのラピッドシティからミネソタに引っ越していた。4年生の頃再びフェニックスに移ったが、ハリウッドにより近くなったと言ってデイヴィッドは喜んだという。
ある日、通っていたジャズ教室に、アリゾナ・バレエのオーディションの案内が舞い込んだ。バレエ未経験のデイヴィッドは、いきなり「くるみ割り人形」の王子役に選ばれた。
この時息子は完全にバレエに恋してしまったのだ。
出番が終わっても、最後まで観たいから残ってもいい?と毎晩家に電話してきたという。
ダンスに熱を上げる彼は学校で耐えずからかわれた。
母曰く「7年生の頃が最悪でした。想像できるありとあらゆる名前で呼ばれていました」。
しかし、Arizona School for the Artsに入学して事態は好転する。デイヴィッドが「自分が適応できる環境を見つけた」と言うように、ダンスに集中することができ、生活が変わった。そしてハン先生に出会ったのもこの時。
「ジャズやタップ、学校の授業をフルでこなした後、10:00や10:30までバレエに取り組んでいた」。
とハン氏は振り返る。
「彼のような細く長く強い肉体はなかなかお目にかかれるものではない。それにデイヴィッドの素晴らしさは体だけでなかった。私がジャンプしなさいと言うと、『どの位高く?』と聞き返してきた」。
デイヴィッド自身は焦っていたかもしれないが、家族はそうではなかった。
彼らは、才能ある子供を持つ両親が普通ならすることの逆を行ったのだ。
(to be continued)
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