2011年12月25日日曜日

Intervista esclusiva a Massimo Murru

Artisti - Intervista esclusiva a Massimo Murru

マッシモの単発インタビュー紹介シリーズその2。

イタリアのウィークリーマガジン、Fusi Orariのインタービューシリーズで過去に紹介されました。Fusi Orariは国際関係、政治、文化など幅広いテーマを取り上げているようです。

マッシモ・ムッルが語る、ロイヤルオペラハウス・パリオペラ座・ミラノスカラ座の比較や、多忙を極める時期の生活、メディアに対する批判、著名な振付家の作品についての意見など、盛りだくさんです!
*イタリック体は訳者注釈です。

Massimo Murru in "Mediterranea"

マッシモ・ムッル 特別インタビュー

ミラノ ― スカラ座のアーティスト出入口では、人目に付く心配はない。ひとり、ジーンズにダークカラーのジャケット、サングラスなしに出てくる。それともマッシモ・ムッルは舞台で熱狂的なファンには慣れているのか。舞台後のステージ・ドアにはサインをもらうための列ができる。ロンドンはロイヤル・オペラハウス・オブ・コベント・ガーデン、パリ・オペラ座、果ては東京、ニューヨークまで。
2003年来スカラ座のエトワールであるマッシモは、イタリア生まれの才能を十年来発信しつづけてきた。クラシックからコンテンポラリーまで、彼はそのテクニックのみならず、その知的かつ奥行のある解釈によって自らを差別化している。(中略)


どういう状態で、ダンスが単なる趣味ではなくあなたの職業になると分かった(もしくは決意した)のですか?
Elizabetta Terabust
どの状態…僕にもわからないですね。10歳というまだ幼い頃にバレエを始めました。どんなことに出会うのか見当もつかず、バレエは一度も見たことはなかったし、両親も熱心に劇場に通っていたわけではありませんでした。僕はこの全く慣れない場所に身を置いて、一歩一歩あゆんで来た結果、ディプロマまで至ったのです。「エトワールになろう」とか「<白鳥の湖>を踊ろう」などとは一度も考えたことはなかった。ものごとが自ずと、徐々に発展していったのです。(ディプロマの後)すぐに(スカラの)バレエ団に入団し、ソリストになり、次にプリンシパルダンサーになりました。エリザベッタ・テラブスト*がディレクターを務めていた時、1994年にプリンシパルダンサーに昇進しました。

*Elisabetta Terabust(1946~): ローマ・オペラ座バレエ学校から同バレエ団に入団し72年にエトワールとなるが翌年ロンドン・フェスティバル・バレエ(現・英国国立バレエ)に移籍する。80年代にイタリアへ戻り、エミリア州のAterballettoで様々な主役を務めたのち90~92年ローマ・オペラ座、93~97年ミラノ・スカラ座、2000~02年フィレンツェ五月音楽祭劇場(Teatro del Maggio musicale fiorentino)、02年ナポリ・サンカルロ劇場と、バレエ団の監督を歴任したのち07年より再びスカラ座に戻るが、現在スカラのバレエ・ディレクターはMakhar Vazievが着任。



ディプロマをもらってわずか数年後ですね?
はい、しかしエトワールに命名されたのは2003年のことです。その間はスカラ座には固定メンバーではなくゲストという形でいることを選びました。

多くのコンテンポラリーの振付家があなたのための役を作りだしました。そういった時、重大な責任を感じますか?それともむしろ既存の作品を踊る方が難しいですか?
既に存在する振付を踊る場合の入れ込みは比較すると弱いです。自分に関して言えば、たとえ既存の作品であっても常に自分が何をしているのかよく考えます。つまり(誰かの)過去の何かリピートにならないようにすること。そして(舞台が終わると)コスチュームを脱ぎ捨てて家に帰ります。
それに対し新たな作品に対峙する時のコミットメントはビジブルで、(舞台に立ってない時も)いつでも感じられます。ある作品の踊り手になる事にとどまらず、その誕生の一端を担いさらにその生みの親となるのです。振付師がどれだけダンサーの考えや貢献を受け入れるかにもよりますが、ダンサーのコミットメントがより深いのは明らかです。
もし振付家との関係が良好で、彼が気難しいタイプでなければ、役の創作に大きな困難はありません。作品のクリエーションにたずさわることは、アーティストにとってもっともすばらしいことの一つです。たとえジゼルのようなクラシックバレエの主役を新しい振付によって再生するときでさえも常に責任は感じます。役柄の典型的イメージに自分を合わせることを避け、シグフリードでなくアルブレヒトなのは衣装が違うだけだという感覚に陥いることのないようにします。

William Forsythe
あなたのために作品を作った振付家と仕事をする中で、最も素晴らしかった経験は何ですか?
もちろんローラン・プティによる、カルラ・フラッチと共演した「シェリ」ですね。それは僕にとっての通過点であり成長期間でした。プティはどの振付師よりも多くを僕のために作ってくれた。フォーサイスも、自分とは一つの作品しかありません(スカラ座での「Quartetto」 by Ferri, Maximiliano Guerra, Desmond Richardson, and Massimo Murru, Sep 8-17, 1998) が、素晴らしかった。マッツ・エックと彼の振付けた「ジゼル」を作り上げた(彼との作品も一つのみですが)こと、それ以前にもコヴェント・ガーデンでの「カルメン」に取り組んだことも、非常に重要な経験でした。


ベジャールとはどうだったのですか*?
ベジャールは今日最も偉大な振付師の一人です。約50年のキャリアと数多くの作品。その全てが完璧な成功を収めたわけではないかもしれませんが、クリエーターとしての才能に疑いの余地はありません。まず「ボレロ」について話しましょう。ボレロは彼の作品の中では珍しく、振付という観点からはあまり優れているとは言えませんが、メディア的視点からは大成功した作品です。今日、ラヴェル作曲の、かつベジャール振付による「ボレロ」は、その丸テーブル**に上がる者は皆、凡庸なダンサーからルチアナ・サヴィニャーノやシルヴィ・ギエム(のような非凡なダンサー)まで全ての者が成功しています。まさにルチアナ・サヴィニャーノやシルヴィ・ギエムは(他の作品でも)センセーショナルだけれど、(ベジャールの「ボレロ」はその)あまりに強い印象のために、誰でも成功に導くことができます。
*マッシモは「さすらう若者の歌」「春の祭典」などのベジャール作品を踊っている。 **ベジャール振付による「ボレロ」は赤い円台の上で主役が踊る。
Luciana Savignano in "Boléro"


Sylvie Guillem in "Boléro"
自分はモダンな作品に適応しているダンサーだと思いますか?
モダンなダンサーという意味がよくわからないな・・・すべてのダンサーは現代的でなくてはなりませんから!モダンなダンサー、またはコンテンポラリーなダンサーというのはつまりはその時代のダンサーだと思います。この定義が自分に当てはまるかどうかわかりません。どんなラベルを貼るのか僕の判断に委ねるとすると、モダンなダンサーというのは、王子の役が出来る、悲劇の中の役も踊れる、抽象的な作品にも対応出来るダンサーですね。

パリ・オペラ座の天井画(マーク・シャガール)
ミラノ、パリ、ロンドンなどあらゆる劇場で踊ってきて、どのような違いを感じましたか?
パリ・オペラ座は巨大なマシーンのように、何が起ころうとも停止することなく、ひとりでに機能するようにできています。ヌレエフが道筋を示し、以来車輪は回り続けている。組織は大規模で、(労働)時間は安定かつ固定しており、規律も厳しく守られています。
対して英国ロイヤルバレエでは、(ダンサー達は)奴隷のように働いています!ただ恐らくバレエ団の質的レベルはやや落ちると思う。キーロフバレエ(マリインスキー・バレエ)を例に取りましょう。彼らは揃って身長180cmで、皆モデル並に美しい。パリ・オペラ座のダンサーは180もありませんが、皆美しく均一です。ロイヤルバレエではこうはいかない。バレエ団の質に均一性はありません。しかし彼らの働き方は驚異的です。
仮にリハが10:30からだとしたら、レッスンは9:30に始まり、リハは18:00まで続き、本番が19:30に始まるのです。
僕がコベントガーデンに居た時目にしたバレリーナ達は、レッスン室からまた次のレッスン室へ、「白鳥の湖」のバリエーション、「眠りの森の美女」、そして「オネーギン」のパドゥドゥ、「カルメン」の練習をこなし、夜の「バヤデール」の舞台へと向かって行った。僕はびっくり仰天してしまった。問題は、日中5つのバレエを踊ると、夕方にはもう自分が誰だか分からなくなる。衣装を身につけ、すべきことをするだけです。もちろん自分の役柄は強く感じられますが。
Royal Opera House  (Covent Garden)
週に8つ上演し、世界ツアーをたった一日の休みのみで移動して廻るという、非常に強靭なバレエ団を目にしているのだと強く意識させられます。それが彼らの長所であり、また彼らにとってはそれが普通なのです。

コベントガーデンでは、観衆もまた異なりますよね。
その通りです。彼らはオフィスを出た後まるで映画に行くかの如く劇場へ行く。皆そう言っているし、本当にそうなのです。彼らはバレエを熟知し、ダンサーの解釈・表現に対してとても厳しい。初めてコベントガーデンに行った時はゾクゾクしましたね!終演後人々がシルヴィ(・ギエム)のところへ来てこう言いました。「あなたはもうこの演目は踊っちゃいけない、それこれを踊るべきだ!」と。良くも悪くもイタリアでは考えられないシチュエーションです。

あなたの演じる多くの有名な役の中でコンテンポラリーでないものに「マノン」のデグリュがあります。このバレエの成功要因は何だと思いますか?
ケネス・マクミラン(「マノン」の振付師)はストーリーにふさわしい解釈の鍵を見つけることに成功したと思う。パドゥドゥが受ける強力な時代の試練に耐えるバレエです。 マクミランは知らないけれど、初代デグリュであるアンソニー・ダウエルとロンドンでこの作品に取り組みました。
初めて「マノン」を踊ることになり、プリンシパルダンサーになった。翌年またマノンを踊る時、何も理解していないと感じる。そしてロンドンでダウエルと仕事をする機会が訪れる。
「マノン」はいわば彼の為に作られた作品です。そしてやはり何もわかっていなかったと気づくのです!そして全く新たな作品に取り掛かるかのように一から始めるわけです。
「マノン」は非常にインパクトの強いバレエです。理由の一つは踊り手が解釈を強いられること。もし人物の解釈をしなければその踊り手はおしまいです。観客は映画にでも行った方が、より安いしより楽しめるでしょう。
The original Manon and Des Grieux: Antoinette Sibley and Anthony Dowell in 1974
アンソニー・ダウエルと仕事が出来たのはとてつもない幸運でした。彼はもうかなり前にロイヤル・バレエの監督を引退しています。僕が彼に出会えたのは、彼がG.M.役を演じる為に(ロイヤルに)招かれており、シルヴィが僕たちの練習を見に来て欲しいと頼んだからです。それに「マノン」はロイヤルバレエ団に属する作品です。このバレエはロイヤルオペラハウスで生まれたのです。舞台には特別な雰囲気があり、それがプラテア(平土間)まで伝わってくる。

ところで、あなたのイメージはというと控えめなアーティストで、名声を鼻であしらうとか。あなたはシャイなのですか、それともスターダムが好きではない?
(真の)スターダムが今も存在するとは思えません。もしも自分が誰かを語るために良いイメージを作るのが役立つんだったら、スナップショットやインタビューというのが助けになるでしょうし、ダンサーを職業とする人がたいてい持っているナルシシズムの欲求を満たしてもくれるでしょう。しかし僕は今日のメディアやジャーナリズムで目にするスターダムの在り方は好きではありませんね。僕は物事を軽く捉えたくはないですね、長期的にはそれが(人々に自分が)重く感じられる危険性はありますが。

下着姿でテレビに出るくらいなら家に居た方がよっぽどマシです。今日では視認性が欲しければ何らかの方法で自己宣伝をしなくてはならないご時世なのは解っています。しかし誰にも選択権はある。当然50年代のスターダムにはそれなりの魅力がありましたが、契約上結婚したり付き合ったり好きなように食べたりできない男優や女優たち・・・ただし今のスターダムはこれとは比較になりません!僕は本業のパフォーマンスを可能な限り良くしようと努力していますから、それ以外のことに興味はありません。
マッツ・エック版「ジゼル」を踊った時、あらゆるニュースに自分が載った。Striscia la notiziaNovella 2000の見開きに、僕のお尻を最前面に出してね。ありえません!こうした事全てが僕は好きではないのです。だから今まで色々な提案が来ても断りました。例えばファッション系のスタジオでシャツの前をはだけて写真を撮る依頼が来たりした時。僕は観客がバレエを観に劇場へ来てくれること、自分がどれだけ良いパフォーマンスが出来るかで劇場に来てくれることを願うのみです。開いた脚や、胸板を見るためではなくてね。

Rudolph Nureyev (1938-1993)
あなたのことをシャイで捉えどころのないイメージに仕立て上げているメディアの声を否定するということですね。
その通りです。クラシックバレエのダンサーの中で、エトワールはテレビや時の俳優たちを軽蔑し批判するけれど、いざ誌面に写真が載る機会があると何をおいてもそれを得ようとする。少し矛盾しています。もしメディアを好まず出ないと決めたなら、そうした機会が訪れても飛びつかないはずでしょう。
つまりいわゆるスターダムのこうした側面に関して言えば、何を受け入れ何を拒否するかという事になります。少なくとも僕がプールでのテレビ撮影を頼まれた時にはそうしています。
我々はクラーク・ゲーブル*ではないのです!もしくは人々に平手打ちを喰らわせに出て行ったヌレエフでもない。我々は皆、何よりも自分たちの仕事に専念しなくては。
*Clark Gable(1901~1960): 30年代を代表するアメリカの映画俳優。 「風と共に去りぬ」のレット・バトラー役として非常に有名

ではこの類の名声はダンサーの役には立たないと思われますか。
スカラ座にとってマッシモ・ムッルがカレンダーになる必要はないでしょうし、ましてやロイヤルオペラハウスやパリ・オペラ座は言うまでもありません。スカラは毎日、誰が舞台に上がる日であろうと、どの階も満席です。イタリアではどんな時でも個々人の好みが尊重されます*。(*特定の有名スターが演じる時のみ満席になったりしないことを揶揄)
ロンドンでは劇場側が擁するアーティスト達のイメージを前面に押し出しています。タマラ・ロホやアリーナ・コジョカル(共にロイヤルバレエのエトワール)が雑誌のカバーを飾り、演目のポスターが展示され売られています。スカラではこうした事は起こらない、もしくはあったとしても滅多にありません。

1週間に4~5回舞台があるような多忙な時期、例えばロンドンで2回ミラノで3回とかそんな時は、仕事以外はどういった生活をしていますか。
そういう時は生活全てが仕事漬けです。朝6時に起きてロンドンでのリハに間に合う唯一の飛行機に乗り、舞台で踊り、ディナーに出かけて、ホテルに戻って目覚ましを5時にセットする。その時間に起きてタクシーに乗らないと、ミラノでの次の舞台に間に合う唯一の飛行機を逃してしまうから。こうした時期は疲れを感じないメカニズムが働いていて、疲れを感じません。後になってリラックスした時初めて疲れに気付くのです。そういう時どっと疲れが出たりします。でも真っ只中にいる時は進むしかない。一日でものすごいスケジュールをこなしたことがあります、もちろん東京ではそうはいかないけれど、ロンドンではままあることです。
ロンドンに朝10時に着いて地下鉄に乗り45分後にはロイヤルに着いて、すぐにリハが始まる。そして5時半になるとマッツ・エック(当時僕らは「カルメン」の練習をしていた)に頼んで、まだあと30分リハが残っているけど、9時にミラノ行き最終便に乗らなければ、翌日プティ版「ノートルダム・ド・パリ」を踊れないから一足先にあがらせてくれと頼む。これが1週間に2回もありました。スカラで舞台があるのに、ちょうどその日程にマッツがロンドンで時間が取れることも知っている。ロンドンに行くか、舞台をキャンセルするか。あとで考えて初めて自問する。"一体僕はどうやってやりくりしたんだ?"と。もちろんこのような時に映画やショッピングに行く方が楽しいのになどと考える余裕はありません。

プティ版「ノートルダム・ド・パリ」練習風景 (ルグリ、ムッル他)
いずれにしてもそんな状態は長くは続けられませんね。
はい。たとえ肉体的に耐えたとしても負担が大きいですし、遅かれ早かれ何かの形で代償を払うことになるでしょう。踊りに全てを捧げて、引退した時には疲れ果ててしまったという話は、伝説的なダンサーだけのものではありません。それに、もし恋愛や友情を本当に知らなければ、舞台上で何が語れるでしょう?愛はキャリアの二の次・・・でもどうやって?僕達はいつも相反する力の間でバランスを取るポイントを見つけなくてはならない。全てを解決する数式は存在しないけれどね。生涯ただ待ち続ける人もいるけど、大恋愛は訪れない。これは職業は関係ないですけどね!

非常に多くのダンサーがバレエ団の同僚の中から恋人を見つけていますね。

そうですね、ある意味便利ですから。それに恐らく、一生涯の恋人が劇場の前を通り過ぎたとしても、「白鳥の湖」を練習していて巡り会う事が出来ないのかもしれない。でもそれは職業を問わず誰にでも起こりうる事ですけどね!

パートナーと(解釈について)同意出来なくても踊ることができますか?
同意できないというのがどういう意味なのか考える必要があります。問題があってもお互いへの敬意があれば踊れます。議論があるかもしれないし、話し合いや、したければ言い争いをしてもいいでしょう。でも根底にプロとしての敬意がなくてはなりません。火花が散るのは求めないけれど僕の人生で2回だけありました。それでもプロの敬意は保っていましたけどね。もしこの敬意がないと、すべてが非常に困難になります。このような場合、僕は一緒に踊るのを極力避けます。それが不可能な時は”ヒキガエルを呑み”ますね*。しかしそういう時はパフォーマンスが上手くいかないし、(パートナー間に問題があるのは)見ていて明らかです。*(とても嫌なことを我慢する例え)

あなたが「ジゼル」のクラシック版、シルヴィ・ギエム版、マッツ・エック版を踊ったように、同じ物語でも振付の異なる作品を踊る時、変わるのは踊りだけですか、それともバレエの雰囲気が何か変わりますか?
雰囲気自体が変わりますね。「ジゼル」が今日まで生き続けてこられたのはその極めてシンプルな、ありきたりとも言えるストーリーゆえです。ある観点からは間違いなく秀逸なバレエですが、ストーリーは非常に凡庸です。エック版、ギエム版のように、同じ物語を元に、異なる解釈をし、独自のバージョンを生み出すことができるというのは非常に興味深い。これらはクリエーションではなく、単に一時的にお互い結ばれただけです。
シルヴィ・ギエム版のもっとも大胆な点は、舞台の上での”言語”を作り出す能力と意欲です。それに対しエックの「ジゼル」は色調の違いであり、ストーリーにあまり沿わない変化形を提示しています:ジゼルは第1幕の終わりで死んで精霊という形になって再び登場するのではなく、混乱して大騒ぎします。ここではサブスタンス(実質)ではなくフォーム(形式)を変化させています。僕は、最初から最後までただ一つの音調も変えることなく「ジゼル」を再解釈したエック版は、非常に素晴らしいと思います。


中でも特に思い出深い舞台というのはありますか?
もちろんです。考えてみると不思議な感じです、例えば拍手の記憶というのは曖昧なものです。でも「シェリ」の初演はいつでも鮮明に思い出します。コベントガーデンでの「マノン」もよく覚えているし、最近だと2005年11月のロンドンでの「ロミオとジュリエット」ですね。スカラ座での初の「ジゼル」も挙げておきましょう。それらは全て強い感情を伴った記憶で、今でもその感情は自分の中に残っています。

Sylvie Guillem, Massimo Murru in "Manon"

 - Alessandro Bizzotto
(fin.)

【原文】
MILANO – All’ingresso artisti della Scala sembra non correre il rischio di essere riconosciuto. Esce solo, jeans e giacca scura, senza arie o occhiali neri. Eppure in scena Massimo Murru è abituato a mandare in delirio fan e appassionati; per un autografo dopo gli spettacoli fanno la fila alle stage door di mezzo mondo, dalla Royal Opera House del Covent Garden londinese all’Opéra di Parigi, fino a Tokyo e a New York.
Ètoile al Teatro alla Scala dal 2003, Massimo esporta il talento italiano da oltre dieci anni. Dai classici di repertorio alle creazioni contemporanee, ha saputo distinguersi non solo per tecnica, ma anche per spessore e intelligenza interpretativa.
sguardo sveglio, il garbo sottile, l’intelligenza acuta, Murru solleva il discorso dal pantano del luogo comune: difende le sue scelte con convinzione, affonda con lucidità il bisturi nelle carni del divismo nostrano, parla di sé senza mai prendersi troppo sul serio. Sopra due tazze di cappuccino la conversazione parte in quarta, allungandosi oltre la scaletta dell’intervista standard.


A che età hai capito (o deciso) che danzare era la tua strada professionale, non solo una passione da coltivare?
A che età… non saprei dirtelo! Ho iniziato giovanissimo, entrando a dieci anni alla scuola della Scala. Non sapevo a cosa andavo incontro, non avevo mai visto un balletto, i miei genitori non erano appassionati di teatro. Mi sono trovato in questo posto stranissimo, e passo dopo passo ho compiuto il percorso che mi ha portato al diploma. Non ho mai pensato “Diventerò étoile, ballerò Il lago dei cigni”; le cose si sono evolute in modo graduale. Sono entrato subito in corpo di ballo, ho iniziato a ricoprire i primi ruoli da solista e poi da primo ballerino; nel 1994 sono stato promosso Primo ballerino, sotto la direzione di Elisabetta Terabust…
… pochissimi anni dopo il diploma, vero?
Sì. La nomina a étoile invece è arrivata nel 2003, dopo diversi anni in cui avevo scelto di essere legato alla Scala come guest, anziché come membro fisso dell’organico.
Molti coreografi contemporanei hanno creato ruoli per te. Percepisci un senso di responsabilità maggiore, in queste occasioni? O è più difficile arrivare e ballare qualcosa che già esiste?
Quando arrivi e ti trovi a dover ballare su una coreografia che già esiste il coinvolgimento è ovviamente meno forte. Resta sempre, per quanto mi riguarda, la volontà di ragionare su quanto si sta facendo, pur in presenza di un balletto già creato come possono essere quelli di repertorio; evitare insomma di rifare qualcosa che c’è per poi togliermi il costume la sera e andare a casa. Quando ti trovi di fronte a una creazione nuova il tuo impegno è presente in modo costante, è visibile: non ti limiti ad essere interprete di un lavoro, ne fai parte dalla nascita e puoi esserne artefice. Il coinvolgimento è ovviamente maggiore, anche se dipende dal coreografo che ti trovi davanti, da quanto questo lascia spazio al tuo apporto e alle tue idee. Se il rapporto con il coreografo è buono e sa essere disteso, non c’è maggiore difficoltà nel creare un ruolo: è una delle cose più belle che possano capitare a un’artista. La responsabilità, poi, la senti sempre, anche quando fai rivivere il protagonista di un balletto classico come Giselle, evitando di adattarti al cliché del personaggio e di sentirti Albrecht anziché Sigfrido solo perché ne indossi il costume. Per me non funziona così.
Quali sono le esperienze più belle, fra quelle che hai avuto con coreografi che hanno creato su di te?
Sicuramente Cheri di Roland Petit, accanto a Carla Fracci. Ha rappresentato un momento di passaggio e di crescita. Petit è il coreografo che più di tutti ha creato per me. Ma anche Forsythe, con cui ho solo una creazione. È stato comunque importante lavorare con Mats Ek (anche se non si è trattato di una creazione) in occasione della sua Giselle, e più avanti per Carmen a Covent Garden. Auguro alle nuove leve che escono oggi dalla scuola della Scala di incontrare personaggi simili!
Com’è andata con Béjart?
È un altro nome fra i più grandi oggi. Cinquant’anni di carriera e tantissime creazioni… non tutte riuscite perfettamente forse, ma il talento del creatore resta indubbio. Parlavamo prima di Bolero: è una delle sue poche opere non geniali dal punto di vista coreografico, ma strabilianti dal punto di vista mediatico. Oggi Bolero, oltre che di Ravel, è di Béjart, e chiunque salga su quel tavolo tondo ha successo, dalla ballerina più insignificante a Luciana Savignano o Sylvie Guillem. Alcuni interpreti poi restano strepitosi a prescindere, come Luciana e Sylvie appunto, ma la presa è talmente forte e immediata che Bolero è in grado di portare al successo chiunque.
Ti ritrovi nella definizione di danzatore adatto al repertorio moderno?
Non so bene cosa si intenda per danzatore moderno… un danzatore deve essere moderno del resto! Il danzatore moderno o contemporaneo è un danzatore del suo tempo, alla fine. Non so se mi si addica come definizione. È riduttivo a mio giudizio dare etichette: il ballerino adatto a fare il principe, quello adatto alle figure tragiche, quello adatto a creazioni astratte… Dovremmo cercare, soprattutto oggi, di poter affrontare tutti gli aspetti della nostra arte.
Tant’è che, fra i tuoi ruoli più celebri, c’è quello in un’opera non contemporanea: Des Grieux in Manon. A cosa pensi sia legato il successo di questo balletto?Penso che Kenneth MacMillan, creando Manon, sia riuscito a trovare la chiave di lettura giusta e più adatta alla storia, il balletto resiste all’esame del tempo per la grande forza nei passi a due.
Non ho conosciuto MacMillan, a Londra ho lavorato con Anthony Dowell, che è stato il primo Des Grieux. Ti capita di ballare Manon la prima volta, diventi Primo ballerino, lo riprendi l’anno dopo, e credi di aver capito alcune cose. Poi arriva l’occasione di lavorare a Londra con Dowell, insomma col ballerino per cui Manon fu creato, e ti accorgi che non avevi capito niente! Lì inizi un nuovo lavoro, da capo. Manon è un balletto dall’impatto fortissimo anche perché ti obbliga a interpretare, non c’è scampo! Se non interpreti il personaggio sei finito; per lo spettatore, in quel caso, sarebbe meglio andare al cinema, spendendo meno e divertendosi magari di più. Lavorare con Anthony Dowell è stata una grandissima fortuna; ormai si è ritirato da tempo e non dirige più il Royal Ballet; l’ho incontrato perché era ospite a Covent Garden per interpretare il ruolo dell’anziano Monsieur G. M., e Sylvie [Guillem, n.d.r.] gli aveva chiesto di venire a vedere le prove del balletto. Manon poi è un balletto che appartiene al Royal Ballet, è nato sul palco della Royal Opera House; l’atmosfera in palcoscenico è molto forte, e sa arrivare alla platea.
Quali differenze hai trovato, ballando in teatri diversi, da Milano fino a Parigi, Londra…?
L’Opéra di Parigi è una macchina talmente grossa e rodata da funzionare da sola: non si ferma, qualsiasi cosa accada. Nureyev ha dato il via, e la ruota ha saputo continuare a girare. Ha orari stabiliti e fissi; la compagnia è immensa, e l’ordine va mantenuto per forza. Al Royal Ballet invece lavorano come schiavi! Forse qualitativamente, a livello di corpo di ballo, lo standard è meno elevato. Prendiamo ad esempio il corpo di ballo del Kirov: sono alte un metro e ottanta, sono tutte fotomodelle, sono tutte uguali. All’Opéra di Parigi non sono alte uno e ottanta, ma in corpo di ballo sono comunque tutte belle e simili. A Londra non è più così: non c’è omogeneità nel corpo di ballo. Ma il metodo di lavoro è strabiliante. Se la prova di scena è alle dieci e mezza, la lezione inizia alle nove e mezza, e le prove si susseguono fino alle sei di sera, pur con lo spettacolo che inizia alle sette e mezza. Ho visto ballerine, nei periodi in cui sono stato a Covent Garden, passare da una sala all’altra provando una variazione del Lago dei cigni, La bella addormentata, il passo a due di Onegin, Carmen e ballare poi La Bayadére la sera. Sono rimasto sbalordito. Il problema è che, se provi cinque balletti in un giorno, la sera non sai più nemmeno chi sei; ti metti un costume e fai quello che devi fare. L’interpretazione può risentirne, certo. Ma riconosciamo di trovarci davanti a una compagnia solidissima: otto spettacoli a settimana, tournée ovunque nel mondo con un solo giorno di pausa per trasferirsi da una città all’altra. È il loro mestiere e lo trovano normale.

A Covent Garden hanno anche un pubblico diverso, comunque.
È vero. Vanno a teatro quando escono dall’ufficio, come se andassero al cinema, lo si sente dire ed è verissimo. Conoscono bene i balletti, sono esigentissimi nei confronti degli interpreti: la prima volta che sono stato lì sono rimasto basito! Gente che alla fine degli spettacoli andava da Sylvie a dirle “Lei non deve fare più questo balletto, è meglio che faccia quest’altro”! È una situazione che, nel bene o nel male, qui in Italia è impensabile: purtroppo stiamo scivolando verso un’indifferenza sempre maggiore nei confronti della danza e del balletto. Ciò che accade in teatro e attorno ad esso tende in definitiva a rispecchiare quanto capita fuori, in questa cultura dell’apparire.
A proposito, la tua immagine è quella di un artista riservato che snobba il glamour. Sei timido o non ami il divismo?
Beh, posto che non credo il divismo esista ancora, se la costruzione di un’immagine divistica serve a raccontarti per quello che sei, ben vengano interviste e servizi; possono anche appagare anche quella componente narcisista che possiede quasi sempre chi fa questo mestiere. Ma quello che vedo del divismo di oggi, sui media o nei giornali, non mi piace; non riesco a prendere la cosa con leggerezza, anche se alla lunga rischio di diventare pesante in questo senso.
Sto a casa molto volentieri se l’alternativa è quella di andare in televisione in mutande. Se vuoi avere visibilità oggi devi esporti in un certo modo, lo capisco; ma ognuno è libero di decidere. Certo, visto oggi il divismo degli anni Cinquanta ha un certo fascino: attori e attrici che per contratto non potevano sposarsi, fidanzarsi, mangiare… Ma non mi dirai che il divismo di oggi può essere paragonato a quello! In confronto è davvero desolante. Cerco di fare il mio mestiere nel miglior modo possibile, il resto è davvero poco interessante. Quando ho ballato la Giselle di Mats Ek mi sono trovato su tutti i telegiornali,Striscia la notizia e servizi a doppia pagina di Novella 2000 col mio sedere in primo piano: allora no! Davvero tutto questo non mi piace. E anche per questo ho rifiutato diverse proposte: ti invitano magari per un servizio fotografico in studio in stile molto fashion e con la camicia aperta. Io posso solo augurarmi che il pubblico venga in teatro per vedere lo spettacolo e per quanto riesco a dare in una recita, non perché mostro una gamba scoperta o un pettorale.
Smentisci insomma le voci che ti vogliono timido e sfuggente.
Assolutamente. Fra ballerini classici, étoile e via dicendo si arriccia il naso di fronte al presenzialismo televisivo, all’attore o all’attricetta del momento; li critichiamo, ma poi appena si presenta l’occasione di avere la foto sul giornale corriamo per esserci a qualunque costo. È un po’ un controsenso. Se questa cosa non ti piace e la rifiuti, non corri a farla quanto ti capita l’occasione. Insomma, riguardo questo aspetto del cosiddetto divismo, oggi sono più le cose che ti trovi a rifiutare rispetto a quelle che accetti. Almeno questo è quello che faccio io quando mi chiamano per un servizio televisivo in piscina; nessuno di noi è Clark Gable! O Nureyev, che si permetteva di uscire e schiaffeggiare la gente. Dobbiamo tutti pensare soprattutto a far bene il nostro mestiere.
Questo tipo di notorietà non serve al teatro, a tuo parere?
Non credo che la Scala abbia bisogno che Massimo Murru vada a fare un calendario, per registrare il tutto esaurito. Ovviamente ancora meno ne hanno bisogno la Royal Opera House di Londra o l’Opéra di Parigi. Oggigiorno la Scala è sempre e comunque piena, chiunque sia in scena. In Italia ci troviamo di fronte a scelte personali, in ogni caso. A Londra è il teatro che spesso spinge e supporta l’immagine dei suoi artisti: Tamara Rojo o Alina Cojocaru finiscono sulle copertine dei giornali, le locandine degli spettacoli sono esibite e vendute… In Scala tutto questo non avviene, o comunque avviene in misura decisamente inferiore. La scelta di esporsi e procacciarsi visibilità mediatica resta individuale.
Nei periodi in cui la tua schedule è una morsa e ti trovi ad avere quattro o cinque spettacoli in una settimana, magari due a Londra e tre a Milano, che fine fa la vita fuori dalla professione?
In casi del genere di vita fuori non ce n’è. La tua vita è alzarsi prima delle sei del mattino per prendere quell’unico aereo che ti permette di arrivare a Londra in tempo per provare, poi fare lo spettacolo, andare a cena, tornare a casa e puntare la sveglia alle cinque per prendere un taxi che ti porti in aeroporto, perché sai che se perdi quell’aereo non sarai a Milano in tempo per un’altra recita. In periodi simili subentra una meccanica tale per cui non senti la fatica, non te ne accorgi; te ne accorgi dopo, quando la situazione si rilassa: in quel caso rischi davvero di accusare il colpo. Ma quando ci sei dentro vai. Ricordo di aver fatto anche cose in giornata; ovviamente non quando ho ballato a Tokyo, ma restando legati all’esempio di Londra.
Mi è capitato di arrivare a Londra alle dieci del mattino e prendere il metrò perché avevo quarantacinque minuti per essere alla Royal, entrare in sala e iniziare le prove; poi alle cinque e mezza del pomeriggio chiedere a Mats Ek (stavamo lavorando sulla sua Carmen) di lasciarmi uscire mezz’ora prima della fine delle prove perché alle nove di sera avevo l’ultimo aereo per Milano, dove dovevo essere il giorno dopo a ballare Nôtre Dame de Paris di Petit. È successo due volte nell’arco di una settimana.
Hai spettacolo in Scala, ma sai che Mats è disponibile in quei giorni a Londra: o fai così, o non balli. Solo ripensandoci ti chiedi “Ma come ho fatto?”. È ovvio che in quei momenti non hai tempo per pensare che ti piacerebbe andare al cinema, a fare shopping o al ristorante.
In ogni caso non può essere sempre così, sul lungo periodo.
No, perché anche se reggessi fisicamente sarebbe logorante; in un modo o nell’altro, prima o poi ti troveresti a pagarla. Non sono soltanto leggende quelle che raccontano di persone che hanno dato tutto alla carriera e si sono trovate sole e stanche quando la carriera è finita. E poi, se uno non ha relazioni o amicizie, alla fine cosa vuole raccontare in scena? L’amore dopo la carriera… ma come si fa? Dobbiamo sempre cercare un punto di equilibrio fra spinte contrapposte, anche se non c’è mai un’equazione matematica che risolve tutto. Ci sono persone che stanno ad aspettare tutta la vita, ma il grande amore non arriva; quello non dipende dal lavoro!
Tant’è che tantissimi ballerini trovano l’amore fra i colleghi della compagnia.
È vero, in un certo senso è anche più comodo, almeno dal punto di vista logistico. Poi magari la persona della tua vita passava fuori dal teatro e tu non l’hai vista perché eri su in sala a provare Il lago dei cigni. Ma quello può capitare a tutti, indipendentemente dalla professione!
Riesci a ballare con una partner, se non vai d’accordo con lei?
Bisogna vedere cosa si intende per non andare d’accordo. Se ci sono problemi, ma è presente stima reciproca, si balla; possono esserci discussioni, si parla, si litiga anche se si vuole; ma alla base deve esserci stima professionale. Non chiedo la scintilla, quel quid magico che capita due volte nella vita, ma almeno la stima professionale. Se questa stima manca, la cosa diventa difficilissima. Io cerco sempre di evitare di ballare insieme, in questi casi, per quanto possibile. Quando proprio non è possibile, mandi giù il rospo. E comunque si vede, la performance ne risente.
Quando capita di affrontare una storia in versioni e schemi coreografici diversi, come a te è capitato con la Giselle classica, quella di Sylvie Guillem e quella di Mats Ek, cambiano solo i passi o cambia anche qualcos’altro nell’atmosfera del balletto?
Beh, l’atmosfera cambia. Giselle è arrivato fino a oggi perché la storia è semplicissima, addirittura banale. È un balletto straordinario da un certo punto di vista, ma la storia è anche molto banale. È molto interessante riuscire a tirarne fuori versioni diverse, partendo da una storia che rimane identica, e affrontare queste diverse letture, come può accadere con quelle di Ek e di Guillem; non sono creazioni, hanno semplicemente spostato temporalmente la vicenda. La cosa più audace della rivisitazione di Sylvie Guillem consiste nella volontà e capacità di svecchiare il linguaggio sul palcoscenico. La Giselle di Ek propone invece sfumature diverse, un’inflessione meno favolistica nella storia: Giselle non muore alla fine del primo atto per riapparire in forma di spirito, ma entra in un manicomio; è un mutamento di forma, più che di sostanza. E la trovo una rivisitazione geniale, senza cambiare una nota nella musica dall’inizio alla fine.
C’è qualche spettacolo che ricordi più volentieri di altri?
Certo, anche se è strano ripensarci. Il ricordo degli applausi è spesso nebuloso, ad esempio. Ma rammento sempre in modo vivido la mia prima recita di Cheri. Ricordo benissimo Manon a Covent Garden, la più recente, nel novembre 2005, e sempre a Londra Romeo e Giulietta. Voglio citare anche la mia prima Giselle in Scala. Rappresentano tutte emozioni forti, che sono rimaste.

 - Alessandro Bizzotto

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