2012年2月19日日曜日

Massimo Murru Interview (Nov. 2000)



 
練習風景  (アレッサンドラ・フェリ、マッシモ・ムッル)

★Stella、浮気疑惑★


先ごろ、デビッド・ホルバーグ氏(ボリショイのダンサー)について「かっこいい」とコメントしたところ、法務のマドンナにあらぬ疑いをかけられてしまった。

心外ですわ。

Stellaは中身(性格)を知らずに画面や舞台見ただけで好きになったりしません。
今月頭に出逢って気に入ったパリオペのダンサーだって、良い子そうだなって思ったから好きなんです。

マッシモは中身が素敵。外見も中身も美しいダンサーなんですもの
ずっとしたためていた今回のご紹介記事でも伺い知ることができます。
インタビューは長いですが、一番最後の段落、Stellaはものすごく感動してますます好きになりました。

後悔はありません。謙遜から"ない"と言うのではなく、実際にないのです」。
「ひとつだけ僕が個人的に追いかけている夢は仕事のことではありません。良い人間になることです。(...)僕は昔から閉ざされた、内気な、ほとんど心ここにあらずといったまなざしの男の子でした。...」



ところでさ、Stellaがアメリカから送ったマッシモへの愛のチョコ、まーーーーだ届いてないみたい。
まだミラノ市内にさえも到着してないのよう・・・
んもー。。。。


★マッシモ・ムッル インタビュー、再び★


久々に翻訳業務(笑)復活の今回はイタリアのバレエ・ファンウェブサイト、Balleto.netより。 
なんと、11年前!!の記事です。(2000年11月)
若~~~い頃のマッシモのお宝写真も!笑

マッシモは1994年にスカラ座のプリンシパルに昇進してから2003年にエトワールとなるまでの間、スカラ座専属ではなく、ゲストという形の契約でスカラとは"付かず離れず"の状態だったようです。
彼に目をかけていた振付家ローラン・プティは1998年までフランス・マルセイユバレエの監督でしたから、マルセイユでも踊っています。

その頃のことや、半月板を損傷した頃のことが語られています。


【インタビュー】

キャリアにおける重要な出会い

Elizabetta Terabust & Luigi Bonino
"Cheek to Cheek" by Roland Petit
僕がスカラ座バレエ団に入った時のディレクターはッジュゼッペ・カルボーネでした。
僕のキャリアの上で大きな意味を持つ出会いは3つあります。
エリザベッタ・テラブスト、ローラン・プティ、カルラ・フラッチとの出会いです。コール・ドとして4シーズンを経た後、エリザベッタ・テラブストの意向で(「マノン」で)プリンシパルダンサーとなったのです。
(ムッルは1990年スカラ座バレエ学校卒業と同時に同バレエ団入団、1994年にプリンシパルに昇進)


その頃すでにスカラのプリマバレリーナだったアニタ・マジャーリ*と組んで「マノン」を踊ったりと、彼女と経験を積むことができました。
すでに経験のあるアーティストとペアを組ませて若いダンサーを舞台デビューさせるのはよくあることです。こうすることでミスキャストになるのを防げるからです。
アニタは僕にとって学生の頃からの憧れで、彼女がヌレエフなど偉大なダンサーたちと踊るのを観ていました。だから僕の番が来た時、すごく張り切りましたね。



*Anita Magyari(1959~):ハンガリー出身の元バレリーナ。ブダペスト国立芸術アカデミーでディプロマ取得後、モスクワのボリショイでさらにバレエを学び、モスクワ・オペラ座のソリストとなる。1982年にイタリアへ移住しスカラ座バレエに入団、1986年にプリマバレリーナに昇進。ルドルフ・ヌレエフ、マキシミリアーノ・グエラのような国際的に著名なエトワールと組み80年代(ドン・キホーテ)および90年代(ケネス・マクミラン版「マノン」)のレパートリーで主役を務めた。


アニタ・マジャーリ、マッシモ・ムッル他による、コンテンポラリー作品 "Tout Satie" by Roland Petit, in Scala

テラブストが僕に与えた2つ目の機会はローラン・プティのオーディションでした。
僕はスカラ座のための作品「シェリ」を踊る若者を探していたローランの気に入り、何日かの練習の後カルラ・フラッチにも気に入ってもらえた。
この作品に取り組んでいる頃、僕はローランとカルラという2つの柱の間に挟まれていました。20歳を過ぎたばかりの僕はプレッシャーで自分が潰れていくような気がしました。でもこの冒険の中に身を投じると、そのうち全てがより自然に感じるようになりました。
根底にはすでに大人のレアと若いシェリの人物像は既に存在していたので、(役柄を作りあげる作業よりも)むしろそれまで僕の夢の中での存在だった人たちとの連帯感を醸成するための期間でした。



テラブストとはいつもものすごく気が合って、互いに尊敬もしていました。しかしながら、彼女は僕のディレクターで、そこを発端にしてさらに先へと行かなければいけなかったというか、行くことができたのです。
カルラとローランとはまた違いました。彼ら二人がこのバレエのストーリーの二本柱となり、レッスン室内では僕たちの間に師弟関係という縛りはなかった。一緒に仕事をし、共同関係を築いてより良いバレエを踊ろうと思うのならば、ハグやキス、愛情表現があって然るべきです。


カルフーニ, ガニオ親子を映画化した
(原題)comme un rêve(2008)


それから多くのダンサーと踊りました。カルフーニ、アシルムラートワ、フェリ、ジャッフェ*・・・でもテラブスト、フラッチ、プティからもらった経験と教えは僕のキャリアにおいて欠かすことのできない通り道だったと言えるでしょう。
(マッシモはフラッチとの「シェリ」初演後、カルフーニやアシルムラートワ相手に同演目を踊っている)

*Dominique Kalfouni(1951~):フランス生まれの元オペラ座ダンサー。プリンシパルダンサーを経ずしてエトワールに昇格した異例の経歴の持ち主。現エトワールのマチュー・ガニオの母。80年代にプティ、バリシニコフと多くの作品を手掛けた。
Altynai Asylmuratova(1061~):旧ソ連・カザフスタン生まれのバレリーナ。1978年キーロフ(現マリインスキー)バレエ団入団し4年後プリンシパルダンサーとなる。2000年ワガノワ・バレエ学校芸術監督任命と同時に現役引退。
Sousan Jaffe(1962~):アメリカ出身の元バレエダンサーで、アメリカンバレエシアターの指導者。

安定したプリンシパルダンサーからゲストアーティストへ。選択ですか、それとも必要性からですか?スカラ座との関係はどう変わりましたか?


その時期に必要あって選択した決断だと言えましょう。(中略)

結果的に自分の居る立場がもう信じられなくなり、働く場所を変えた方がいいと確信しました。これは誰に対する非難でもありません。大きなプロジェクトがない時期は舞台の数も前より少なかったし、バレエ団監督も不在でした。
言い換えれば、新たな出会い・新たな視点が出来るだけ得られるような条件を探していたのです。それに、(ミラノに)居ながらにしてゲスト(ospite residente)という、アーティストとしての新しい形は、他でもないスカラから提案されました。(各シーズンに一定数の舞台への出演保証つきで)
心の奥では間違いなく僕はスカラ座のバレエダンサーです!スカラに対する僕の批判は僕が現在結んでいる契約とは無関係です。


ローラン・プティとウィリアム・フォーサイス、両者とも偉大な振付家ですが性格は違うようですね。あなたはそれぞれと作品を作ったわけですが、印象は?

フォーサイス
プティは彼の振付上の言語とその繊細な性格という点で自分に近いと感じます。フォーサイスとの出会いはまるで、高さ200メートルの壁を1時間で登るようなものでした。全く新しい経験だったし、またこういう出会いがあってほしい思う。僕が新しいと言うのは、ローランとの間では時には説明する必要がないこともあったけれど、ウィリアムの場合は彼の後を全速力で走ってついていかなくてはならなかった。
プティとはより長い期間共に仕事をしたのに対し、フォーサイスとはごく短い間、四人のダンサー(デズモンド、グエラ、フェリと自分)ための作品*を振付けた時にスカラで出会いました(3週間足らず)。
仕事をどうプランするか、またどうやってあらかじめ定めたゴールにたどり着くかは、2人の間でかなり違いの見られるポイントです。
ローランは自分の小説のプロット、感情、アイディアに基づいて物語を語ります。舞台や照明、単刀直入な衣装の助けを借りて、動きを用いてこれら全てを語るのです。
ウィリアムは抽象的な動きを基本にスペクタクルを繰り広げます。だからそれを可能にするために、練習の時には彼はストーリーを使い、アイディアを説明し、雰囲気を想像させます。片方のやり方はもう片方の到達点であり、逆もまた真なのです

*Quartetto「カルテット」はアレッサンドラ・フェリのために作られ、スカラ座で上演されたフォーサイス作品。

怪我、そしてその後の復活期をどのようにして乗り越えましたか?

これに関しても常に、全然時間が足りません!特に復活のほうは。僕はスカラ座の団員ではなくゲストという契約でしたからね。
手術の必要?大変結構!しかし明日はすぐそこなのです!僕の場合は常に故障がタイミング良く訪れてくれたし、深刻な怪我ではなかった。(わずか数年の間隔で両方の膝の半月板を損傷した)
むしろ怖いのは回復期です。再びプリンシパルとして復帰するのが理想的なゴールです。でもそこからまた松葉杖を突く羽目になるのは乗り気のするものではありません。
再び痛い思いをするという心理的恐怖よりも、物理的恐怖のほうが障壁となります。まるで体がその動きを避けようとし、その足をめいっぱい伸ばしたくないとか、ジャンプに踏み切りたくないというように。

僕の場合はいつも、怪我の時は義務感にとらわれずに意識的に自分を鍛えることにしています。例えば「シェリ」で3週間のあいだ怪我をした時、自分を"投げ捨てる"ことに決めました。毎日4時間のピラティス、治療、基礎練習をこない、(半月板の)手術から20日後にそれらの結果がどうか、見ることにしました。
もしも安静にしていなければすごく大事な舞台も諦めなければならないけれど、最も良い状態でいち早く復帰するためです。


(中略)

 夢、計画、後悔

後悔はありません。謙遜から"ない"と言うのではなく、実際にないのです。
将来の計画はたくさんあります。来年はベルリン・バレエ団と新版「ロミオとジュリエット」、そしてナポリではローラン・プティの作品、またコムナーレ・ディ・フィレンツェとのコラボもあり、もちろんスカラ座でも出演します。
夢・・・夢に見る以上のものですが、フォーサイス、エック、キリアンなどとのクリエーション。過去に経験したような冒険をくれる特別な人々との出会いを夢見ています。自分の内面がより豊かに、自分が成長出来るような、生産的な経験をできるだけ沢山持ちたい。
これらはダンサーなら誰しもが持つ夢でしょう。

ひとつだけ僕が個人的に追いかけている夢は仕事のことではありません。良い人間になることです。ダンスは間違いなくその助けになっています。まずダンスは自らが内面に持つ鏡です。人生では自分を隠すことを覚えますが、望もうと望むまいと、踊れば本当の自分が出てきます。それと自分が好きになれない性格(側面)を直す助けになります。
僕は昔から閉ざされた、内気な、ほとんど心ここにあらずといったまなざしの男の子でした。でも演目の登場人物になろうとする時、役柄に入り込もうとする時、自分を投げ捨てるのは簡単になります。なぜなら外に出て来るのは僕じゃなくてデグリュやロミオ、シェリだから、何も恥じることはないのですから!こうして僕は自分以外のアイデンティティーを装うアリバイを見つけ、情熱をより豊かにし、態度の修復をするアリバイを見つけたのです。



【本文】
I passaggi e gli incontri fondamentali della tua carriera.

Sono entrato a far parte del corpo di ballo del Teatro alla Scala sotto la direzione di Giuseppe Carbone; i passaggi fondamentali della mia carriera coincidono con tre incontri determinanti: Elisabetta Terabust, Roland Petit, Carla Fracci. Dopo quattro stagioni come ballerino di fila, venni promosso sul campo (ne L'Histoire de Manon) primo ballerino per volontà di Elisabetta Terabust.
Qui ho approfittato dell'esperienza e disponibilità di Anita Magyari, già prima ballerina dell'ensemble scaligero, in quell'occasione la Manon da affiancare.
Spesso capitava di far esordire i giovani in coppia con artisti già esperti, non si rischiava quindi di andare allo sbaraglio. Anita è sempre stata un idolo per me, fin da quando ero allievo della scuola: l'avevo vista ballare coi più grandi, Nureyev in testa, e l'emozione che fosse arrivato il mio turno mi diede un forte incentivo.
La seconda occasione che Terabust mi prospettò fu l'audizione da Roland Petit, in cerca di un giovane per il suo Chéri, creazione pensata per Carla Fracci alla Scala. Piacqui a Roland, e dopo qualche giorno di lavoro anche a Carla Fracci.
In quell'occasione mi trovai fra due colonne: Roland e Carla.
Io, poco più che ventenne, mi sentivo schiacciato in quell'atmosfera da un'emozione pressante. Tuttavia mi tuffai in quest'avventura, e tutto diventò sempre più naturale.
I ruoli della già adulta Lea e del giovane Chéri in fondo già c'erano, si trattava piuttosto di trovare un affiatamento con chi fino ad allora era solo nei miei sogni!
Con Terabust ad esempio c'è sempre stata una grande intesa, ed un forte e reciproco sentimento di stima: tuttavia lei era il mio direttore, ed oltre quella certa soglia non si doveva o poteva andare; con Carla e Roland fu diverso: sebbene loro siano due pilastri della storia del balletto, in sala non c'erano vincoli istituzionali tra di noi, si lavorava insieme e si cercava quell'intesa che rende vero un balletto; un abbraccio, un bacio, un amore da rappresentare.
Ho ballato in seguito con molti altri nomi della danza, come Kalfouni, Asylmuratova, Ferri, Jaffe, ma l'esperienza e gli insegnamenti derivati da Terabust, Fracci e Petit, posso considerarli i tre passaggi fondamentali della mia carriera.

1999: da primo ballerino stabile ad artista ospite. Scelta o necessità? E come è cambiato il rapporto col Teatro alla Scala?
Direi sia stata una scelta dettata da una necessità che esisteva in quel momento.
Per tutta una serie di circostanze mi trovavo in una compagnia che in quel momento non godeva più della sua solita unità, e di conseguenza vivere e lavorare in un posto in cui non credevo più tanto mi ha persuaso a cambiare orizzonte.
Non è un'accusa rivolta a nessuno: in un momento in cui mancavano grossi progetti, il numero degli spettacoli era sempre inferiore al passato, dove si risentiva della mancanza di un direttore del Ballo, non poteva che crearsi questa atmosfera.
In altre parole ho tentato di trovare quella condizione ideale per la quale sono più possibili nuovi grandi incontri, nuove grandi prospettive. Oltretutto l'offerta di una nuova posizione come artista, da interno ad ospite residente (con una serie di spettacoli garantiti per ogni stagione), è arrivata proprio dalla Scala.
In fondo io sono un ballerino della Scala, per forza! L'attaccamento che sento a questo teatro non ha niente a che vedere col contratto che attualmente ho firmato.

Roland Petit e William Forsythe, due grandi della coreografia, apparentemente diversi fra loro. Con entrambi una creazione: impressioni.
Sento che Petit, per il suo linguaggio coreografico e per la sua sensibilità, è a me più vicino. L'incontro con Forsythe è stato come andare addosso a un muro a duecento all'ora! Un'esperienza assolutamente nuova, da rifare. Dico nuova perché mentre con Roland a volte non c'è neanche bisogno di spiegarsi ("sì, sì, così come hai fatto va bene..."), con William dovevo corrergli dietro il più velocemente possibile.
E' vero anche che col primo ho lavorato molto più a lungo, mentre il secondo l'ho incontrato in Scala per un ristretto arco di tempo (tre settimane appena), e per una creazione per quattro ballerini (Desmond, Guerra, Ferri e me).
Il modo di impostare il lavoro, di come raggiungere il risultato che si sono prefissati, è tra i due un altro elemento di forte diversità. Roland racconta delle storie, basa le sue trame su romanzi, su sentimenti, su idee, usando il movimento per raccontare tutto ciò, con l'ausilio di scene, luci e costumi sempre incisivi; William presenta al pubblico uno spettacolo basato sul movimento, astratto quindi, e per arrivarci, durante le prove usa storie, spiega idee, fa immaginare atmosfere.
Il metodo di uno è il punto d'arrivo dell'altro, e viceversa.

Come hai vissuto gli infortuni, e la seguente ripresa?
Anche per quelli c'è sempre stato molto poco tempo! Specialmente per il secondo, fuori dal Teatro, con un contratto, come detto, da ospite. Bisogna operare? Benissimo, domani sono qui! Ho sempre trovato giusto affrontare con tempestività gli infortuni: nel mio caso non gravissimi (ho rotto i menischi di entrambe le ginocchia a distanza di pochi anni).
Ciò che fa paura piuttosto è il recupero. Tornare come prima è il massimo traguardo auspicabile. Ritrovarsi con le stampelle poi, per un ballerino, non è certo incoraggiante.
E più che della paura psicologica di rifarsi male, c'è l'ostacolo della paura fisica. Sembra che il corpo decida di evitare quei movimenti, che non voglia più stendere quella gamba al massimo, o saltarci sopra.
Nel mio caso ho cercato sempre di forzare i tempi di ripresa, con la coscienza però di non farmi prendere dagli impegni. Quando ebbi l'incidente a tre settimane dagli spettacoli di Chéri, per esempio, decisi di buttarmi: quattro ore di pilates al giorno, terapie, prove a basso regime, e scadenza a venti giorni dall'operazione per considerare i risultati.
Se non fossi stato tranquillo avrei rinunciato anche al più importante degli spettacoli, ma con la certezza di rientrare in corsa il prima e il meglio possibile.

Enti Lirici Italiani: considerazioni.
Oggi assolutamente non buone.
Non trovo ci siano persone che investano a sufficienza nella ripresa dei teatri. Hanno potere, ma evidentemente sono soggiogate dal solito discorso di poca commerciabilità della danza, nel quale peraltro non credo molto, e si sforzano poco per risolvere il problema.
In definitiva, l'arte è diventata un prodotto da vendere, i teatri delle fondazioni tenute da investitori, e chi deve amministrare il bene sembra più dedito a venderlo che a valorizzarlo in termini di tradizione e di valore culturale. Ho lavorato anche a Firenze, Napoli, Verona, Roma, e il disegno generale, per altro sfocatissimo, è il medesimo: tutto un polverone sotto il quale chi lavora tappa i buchi (un direttore di qua, un economo di là), piuttosto che fondare solide basi per ripartire, progetti.
Speriamo che qui a Milano, con lo spostamento della Scala all'Arcimboldi, si crei un secondo spazio che resti utile anche al rientro.
Gli altri teatri dovrebbero sfruttare le proprie peculiarità: Verona ad esempio incentra tutto sulla stagione estiva per sfruttare l'Arena; per la Scala vale il discorso della qualità nella conservazione della tradizione (ciò avviene soprattutto per l'opera però); ma progetti veri e propri di investimenti non ne vedo.
Posizione della danza, e del ballerino, nella società odierna.
Ballerino, danza, arte in generale, vale un po' lo stesso discorso; scontato se vogliamo, ma che non guasta fare, seppur con la dovuta cautela. La posizione che sento occupare come artista, è un po' di distacco all'interno della società, specialmente se l'analisi che stiamo facendo della stessa è impostata da un punto di vista materiale.
L'artista non produce un bene di prima necessità, quindi viene messo o si autocolloca in un posto non proprio di secondo piano, comunque a parte. Prendiamo un esempio: la Gioconda. Sta lì, partono da tutto il mondo per vederla, pagano per ammirarla, non produce un bene indispensabile alla sopravvivenza, ma non è ignorata. Quando ballo il pubblico paga un biglietto, assiste allo spettacolo a teatro, ma non risolve alcuna sua necessità fondamentale, soddisfa piuttosto una sua passione, un suo desiderio.
Quindi se io decido di non ballare, non è come uno sciopero dei ferrotranvieri, o delle banche, in grado di bloccare il sistema, no! Ed il punto a cui si arriva allora è forse proprio questo.
Più di inquadrare l'arte nella società, vediamo un po' qual è il sistema che governa la società stessa.
A me sembra che ci sia una frenesia totale nel modo di vivere di oggi. Ci si preoccupa di sapere poco ma di tutto, e non il contrario. Per me artista invece è proprio questo il lavoro, sapere il più possibile di "particolari cose". Un'opera d'arte ha bisogno di tempo per formarsi e per farsi capire. Non posso dire "vuoi vedere un balletto?, eccolo: che ne pensi?", perché isolato così non ha neanche ragione di esistere.
Detto ciò, uscendo dal punto di vista prettamente materiale del discorso, e di come vive la società, è significativo ricordare ad esempio che dopo la Seconda Guerra Mondiale, la prima cosa ad essere ricostruita è stata proprio la Scala. Manifestazione di recupero di ciò su cui la società poggia, la sua tradizione, la sua cultura, i suoi simboli. Allora sì, qualcosa di essenziale, di indispensabile.
Bisogna capire da che punto di vista vediamo la cosa. C'è ancora un'altra realtà che vorrei evidenziare, ed è quella delle persone che non possono vivere nella maniera del resto della società. Per esempio ho conosciuto una signora che viene sempre alla Scala in lettiga, per problemi di salute: dalle sue parole ho capito che quello che faccio, per lei è motivo di vita, è un incentivo per trovare la forza di subire la sua condizione, di reagire. Niente di più bello.

Sogni, progetti, rimpianti
Rimpianti nessuno. Non vorrei peccare di modestia ma non ne ho.
Progetti per il futuro tanti: il prossimo anno sarò con la compagnia di Berlino per un nuovo Romeo e Giulietta, a Napoli per una creazione di Roland Petit, collaborerò ancora col Comunale di Firenze, e sarò ovviamente in Scala .
Sogni... più che sognare delle creazioni con Forsythe, Ek, Kilyan etc, sogno di avere la possibilità di incontrare gente speciale, che possa darmi tanto come è avvenuto in passato. Avere esperienze produttive, al massimo, che mi arricchiscano dentro, che mi facciano crescere insomma.
Questi sono sogni che qualunque collega credo abbia. Di sogno personale ce n'è invece uno che rincorro, e non solo al lavoro. Diventare una buona persona.
La danza mi aiuta senz'altro a lavorare a questo. In primo luogo è lo specchio di ciò che hai dentro: nella vita si impara a mascherare, ma quando balli, esce fuori il tuo vero Io, che si voglia o meno. Inoltre ti aiuta a correggere, a modificare cose del proprio carattere che magari non ti piacciono.
Io sono sempre stato chiuso, riservato, un ragazzo con uno sguardo quasi assente, ma quando lavoro ad un personaggio, quando cerco di entrare in un ruolo, è più facile buttarmi, perché non sono io quello che verrà fuori, ma Des Grieux, Romeo, Chéri, niente da vergognarsi! Così facendo ho trovato degli alibi per riuscire a vestire altre identità, e a carpirne eventualmente passioni ed atteggiamenti, arricchendo o modificando i miei.

21/11/2000
Andrea Boi, Andrea Piermattei



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